河童のクゥと夏休み
〔070814〕アニメ映画『河童のクゥと夏休み』を子どもと観に行きました。
アニメでも、いやアニメだからこそ、いい作品ができると思わせてくれる秀作だと言えます。絵的にもよかったですし、台詞にもドキッとするものがありました。ストーリーも難解さを避けていてエピソードごとの収まりがよく、子どもといっしょに観ても「安心」していられます。
まだ観ていない方のために詳細は避けますが、コジローの後半への関心は「子どもの河童(クゥは人間がつけた名前)をどうやって自然に帰してくれるの?」という一点に集中していました。彼が東京タワーを登りだした時には、「変な終わり方やったら承知せいへんど(大阪弁です)」と心配しましたが、「なんと!!その手があったか」というエンディングでした。「監督さん、ありがと」という気持ちにしてくれました。
『河童のクゥと夏休み』はおとながご覧になっても十分楽しめそうです。子どもと話し合えるポイントもたくさんあって、学校で上映してもいいと思いますね。
『河童のクゥと夏休み』のHPへ
映画 河童のクゥと夏休み (小学館のアニメ絵本)←記事の最後に写真があります。
〔070815〕終戦の日に。障害児の問題にこだわってきたコジロー(管理人)がこの映画を紹介したくなった理由について。映画の設定では300年前から現代に河童がよみがえったことになっていますが、では現代の河童はどうしているかというと「みんな、人間に殺された…」という台詞がありました。日本は、近代化の中で、何か大切なものを「殺して」しまったのか?と考えました。では、何をなくしてしまったのでしょう。
現代の日本人は家族を大切にしたいと思っています。その結果、家族を守ろうとするとそれ以外の人との距離を開けようとしてしまいます。「血」のつながった者だけで家族をつくろう、そのつながりこそが重要だということになると、そのことで固定的・排他的な関係になってしまい、かえって家族の関係を維持することが難しくなる、という逆効果が生じているのが現代の家族ではないでしょうか。「番犬」まで玄関先で飼って、外部を遮断してしまう家族…。
いろいろな来客があったり、短期間でも「他人の子ども」を育てたり、災害が発生したときに棲家を提供しあったり、そのような共助がごくあたり前に生活の一部として、あったように思われます。自分にとって意味を持つ、大切な人の範囲がもっと柔軟で、他の人と重なりあっていた部分が大きかったんじゃないかと。そんな人間のつながりの世界と「神の世界」の境界域に棲んでいて、人間の社会を見守っていたのが河童だったとしたら…。
私たち人間は、河童の棲む自然環境を壊してしまったという以上に、河童から見て「見守る価値もない身勝手な生き物」に成り下がってしまったので、神の世界にもどってしまったのではと思いました。映画では、河童を人間の自分勝手から守ろうとしたのは人間の家族ではなく、番犬の「おっさん」でした。その番犬が死んだ時、はじめて河童は人間を許し、「ともだち」と呼びました。コジローが「共に…」と目指している社会は、また河童が遊びに来たいといってくれる社会なのかな…、と思った次第です。
〔070830〕映画の紹介を貼り付けますね。

河童のクゥと夏休み - goo 映画
アニメでも、いやアニメだからこそ、いい作品ができると思わせてくれる秀作だと言えます。絵的にもよかったですし、台詞にもドキッとするものがありました。ストーリーも難解さを避けていてエピソードごとの収まりがよく、子どもといっしょに観ても「安心」していられます。
まだ観ていない方のために詳細は避けますが、コジローの後半への関心は「子どもの河童(クゥは人間がつけた名前)をどうやって自然に帰してくれるの?」という一点に集中していました。彼が東京タワーを登りだした時には、「変な終わり方やったら承知せいへんど(大阪弁です)」と心配しましたが、「なんと!!その手があったか」というエンディングでした。「監督さん、ありがと」という気持ちにしてくれました。
『河童のクゥと夏休み』はおとながご覧になっても十分楽しめそうです。子どもと話し合えるポイントもたくさんあって、学校で上映してもいいと思いますね。
『河童のクゥと夏休み』のHPへ
〔070815〕終戦の日に。障害児の問題にこだわってきたコジロー(管理人)がこの映画を紹介したくなった理由について。映画の設定では300年前から現代に河童がよみがえったことになっていますが、では現代の河童はどうしているかというと「みんな、人間に殺された…」という台詞がありました。日本は、近代化の中で、何か大切なものを「殺して」しまったのか?と考えました。では、何をなくしてしまったのでしょう。
現代の日本人は家族を大切にしたいと思っています。その結果、家族を守ろうとするとそれ以外の人との距離を開けようとしてしまいます。「血」のつながった者だけで家族をつくろう、そのつながりこそが重要だということになると、そのことで固定的・排他的な関係になってしまい、かえって家族の関係を維持することが難しくなる、という逆効果が生じているのが現代の家族ではないでしょうか。「番犬」まで玄関先で飼って、外部を遮断してしまう家族…。
いろいろな来客があったり、短期間でも「他人の子ども」を育てたり、災害が発生したときに棲家を提供しあったり、そのような共助がごくあたり前に生活の一部として、あったように思われます。自分にとって意味を持つ、大切な人の範囲がもっと柔軟で、他の人と重なりあっていた部分が大きかったんじゃないかと。そんな人間のつながりの世界と「神の世界」の境界域に棲んでいて、人間の社会を見守っていたのが河童だったとしたら…。
私たち人間は、河童の棲む自然環境を壊してしまったという以上に、河童から見て「見守る価値もない身勝手な生き物」に成り下がってしまったので、神の世界にもどってしまったのではと思いました。映画では、河童を人間の自分勝手から守ろうとしたのは人間の家族ではなく、番犬の「おっさん」でした。その番犬が死んだ時、はじめて河童は人間を許し、「ともだち」と呼びました。コジローが「共に…」と目指している社会は、また河童が遊びに来たいといってくれる社会なのかな…、と思った次第です。
〔070830〕映画の紹介を貼り付けますね。

河童のクゥと夏休み - goo 映画

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